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彼岸過迄 第三十三章

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彼岸過迄 第三十三章

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夏目漱石

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 僕は千代子の髪のでき上らない先に二階へ上った。僕のような神経質なものが拘わって来ると、無関係の人の眼にはほとんど小供らしいと思われるような所作をあえてする。僕は中途で鏡台の傍を離れて、美くしい島田髷をいただく女が男から強奪する嘆賞の租税を免かれたつもりでいた。その時の僕はそれほどこの女の虚栄心に媚びる好意を有たなかったのである。

 僕は自分で自分の事をかれこれ取り繕ろって好く聞えるように話したくない。しかし僕ごときものでも長火鉢の傍で起るこんな戦術よりはもう少し高尚な問題に頭を使い得るつもりでいる。ただそこまで引き摺り落された時、僕の弱点としてどうしても脱線する気になれないのである。僕は自分でそのつまらなさ加減をよく心得ていただけに、それをあえてする僕を自分で憎み自分で鞭うった。

 僕は空威張を卑劣と同じく嫌う人間であるから、低くても小さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じてなるべく隠さない。けれども、世の中で認めている偉い人とか高い人とかいうものは、ことごとく長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤を超越しているのだろうか。僕はまだ学校を卒業したばかりの経験しか有たない青二才に過ぎないが、僕の知力と想像に訴えて考えたところでは、おそらくそんな偉い人高い人はいつの世にも存在していないのではなかろうか。僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨なことを云えば、あの叔父のようなのは偉く見える人、高く見せる人と評すればそれで足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物の名を加える非礼と僻見とを憚かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。小事に齷齪しない手を拱ぬいで、頭の奥で齷齪しているのである。外へ出さないだけが、普通より品が好いと云って僕は讃辞を呈したく思っている。そうしてその外へ出さないのは財産の御蔭、年齢の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れているからでもあり、彼と社会の関係が逆なようで実は順に行くからでもある。――話がつい横道へ外れた。僕は僕のこせこせしたところを余り長く弁護し過ぎたかも知れない。

 僕は今いう通り早く二階へ上ってしまった。二階は日が近いので、階下よりはよほど凌ぎ悪いのだけれども、平生いつけたせいで、僕は一日の大部分をここで暮らす事にしていたのである。僕はいつもの通り机の前に坐ったなりただ頬杖を突いてぼんやりしていた。今朝煙草の灰を棄てたマジョリカの灰皿が綺麗に掃除されて僕の肱の前に載せてあったのに気がついて、僕はその中に現わされた二羽の鵞鳥を眺めながら、その灰を空けた作の手を想像に描いた。すると下から梯子段を踏む音がして誰か上って来た。僕はその足音を聞くや否や、すぐそれが作でない事を知った。僕はこうぼんやり屈托しているところを千代子に見られるのを屈辱のように感じた。同時に傍にあった書物を開けて、先刻から読んでいたふりをするほど器用な機転を用いるのを好まなかった。

「結えたから見てちょうだい」

 僕は僕の前にすぐこう云いながら坐る彼女を見た。

「おかしいでしょう。久しく結わないから」

「大変美くしくできたよ。これからいつでも島田に結うといい」

「二三度壊しちゃ結い、壊しちゃ結いしないといけないのよ。毛が馴染まなくって」

 こんな事を聞いたり答えたり三四返しているうちに、僕はいつの間にか昔と同じように美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。僕の心持が何かの調子で和らげられたのか、千代子の僕に対する態度がどこかで角度を改ためたのか、それは判然と云い悪い。こうだと説明のできる捕どころは両方になかったらしく記憶している。もしこの気易い状態が一二時間も長く続いたなら、あるいは僕の彼女に対して抱いた変な疑惑を、過去に溯ぼって当初から真直に黒い棒で誤解という名の下に消し去る事ができたかも知れない。ところが僕はつい不味い事をしたのである。